詳細情報:開館20周年記念 特別企画展「ドキュメント ~幻想市街劇『田園に死す』三沢篇~」
処女戯曲『忘れた領分』(1955)を書いたとき、寺山は早稲田大学の学生で19歳でした。その後、テレビやラジオドラマの脚本を手掛け、劇団四季や人形劇団ひとみ座などに戯曲を書きおろすようになります。
1967年には、自身が劇団主宰を務める、演劇実験室「天井棧敷」を旗揚げし、隔月毎の新作公演という驚くべき速さで作品を発表していきました。特に、丸山(美輪)明宏に当て書きしたという『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』は、寺山が描く濃密な母子の血の物語と、丸山の美しい台詞回しと所作がかみ合い、会話劇の金字塔となりました。
一方、10代後半の詩人が自作の詩を朗読する、舞台『書を捨てよ、町へ出よう』(1968)では、ひとつの物語を追う台詞劇とは違った大胆な構成の演劇を作り上げます。当時、「家出のすすめ」「書を捨てよ、町へ出よう」と標語を掲げ若者を扇動した寺山が仕掛けた、いわゆるドキュラマ(ドキュメント+ドラマ)は、時代の肖像でした。
69年、渋谷に天井棧敷の専用劇場を作りますが、「建物としての《劇場》は演劇にとっての牢獄である。」と語り、その翌年には、市街劇の第1作目『人力飛行機ソロモン』に取り組みます。
何よりも、まず演劇を「劇場」の外に引きずり出すこと。そのことによって、虚構と日常の現実とのあいだの国境線を取り除き、「何が現実で、何が虚構かわからぬ」歴史の記述と同じ高みに演劇を置くこと、が必要であった。 (寺山修司 評論『迷路と死海 わが演劇』より)
当時は、学生運動が激化、若者と権力体制という強烈な対立構造が存在していました。そのなかで、市街劇は寺山が謳った「政治を通さない革命」そのものだったのです。
『人力飛行機ソロモン』は、1971年にフランスのナンシーとオランダのアーヘムの公演で成功を収め、30時間市街劇『ノック』(1975)では、さらに、日常に深く切り込んでいくことになります。晩年、寺山は、また市街劇をやりたいと話していたと言います。
没後は、10年に1度のペースで上演されてきた市街劇。演劇の枠を超えた変革を目指した寺山の企みは、まだ続いているのです。
「街は、今すぐ劇場になりたがっている。さあ、台本を捨てよ、街へ出よう!」